後陽成天皇も「反対」していた秀吉の朝鮮出兵
史記から読む徳川家康㊳
10月8日(日)放送の『どうする家康』第38回「唐入り」では、太閤になった豊臣秀吉(とよとみひでよし/ムロツヨシ)が指揮する「唐入り」の様子が描かれた。無謀な戦争に不安を覚える家臣もいるなか、徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)は意見のできる数少ない人物として直接、秀吉に諫言(かんげん)する。
豊臣秀吉の野望が大陸へ向かう

静岡県熱海市にあるMOA美術館に展示されている、豊臣秀吉が造らせた黄金の茶室のレプリカ。実物は1585(天正13)年に制作され、組み立て式になっていたとされる。1592(天正20)年5月28日、秀吉は名護屋城に運ばせていた黄金の茶室で茶会を開いている。黄金の茶室が使用された記録は、この日が最後といわれている。
側室・茶々(北川景子)との間に生まれた鶴松を亡くした豊臣秀吉は、関白職を甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ/山下真人)に譲り、自らは太閤(たいこう)を称した。さらに秀吉は、朝鮮を従え、明国(中国)に攻め入る、「唐入り」という途方もない企てを始めていた。
常軌を逸した秀吉の政策に、秀吉の母・大政所(おおまんどころ/高畑淳子)や妻の寧々(ねね/和久井映見)も反対の姿勢を示す。動揺の色を見せる秀吉だったが、自身の判断を覆すことはなかった。
そんな折、茶々が家康に接近を図る。茶々に計り知れないものを感じ取った家康は、秀吉に直接、抱いている危惧を伝えることにした。
自身の意向に正面から反対意見を述べる家康に対し、秀吉は太閤の権力を笠に着て凄んだ。しかし、家康は一歩も引かなかったどころか、小娘に手玉に取られる秀吉を「みじめ」と言い放つ。そんな家康の態度を見て、秀吉の心が動かされた。秀吉は家康の助言通りに、心を惑わす茶々を遠ざけ、明国との戦いも休戦に向けて動き出したのだった。
ところがそこへ、茶々が再び懐妊したとの知らせが届く。穏やかになっていた秀吉の表情に、再び不穏な色が浮かんでいった。
秀吉の身を案じて渡海を制止した家康と利家
1591(天正19)年10月上旬、豊臣秀吉は「唐入り」の前線基地を企図して、名護屋城(なごやじょう/佐賀県唐津市)の築城を開始した(『松浦古事記』)。加藤清正(かとうきよまさ)ら九州の諸大名が普請奉行(ふしんぶぎょう)に命じられている(「今井文書」)。
同年12月28日、秀吉は甥の豊臣秀次に関白の座を譲った(『公卿補任』「木下家文書」)。「唐入り」を想定してのものといわれており、秀吉は京で政務を行なっていた聚楽第(じゅらくてい/京都府京都市)も秀次に譲り、自身の拠点を大坂城に移した上で、自らを太閤と称した。
翌1592(天正20)年1月4日、徳川家康の六男となる忠輝(ただてる)が生まれている(『徳川幕府家譜』)。秀吉が全国の諸大名に大陸への出兵を命じる通知を発したのは、その翌日のことだった(「黒田文書」)。
家康が上杉景勝(うえすぎかげかつ)、伊達政宗(だてまさむね)らとともに京都を出発し、肥前・名護屋に向かったのは同年3月17日のこと(『家忠日記』『言継卿記』)。この時、家康の率いた軍勢は約1万5000の規模だった(『鍋島直茂譜考補』『天正記』)。
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